CORVUS からの ことば


《2016年1月》


新しい年が明けて、はや三週間。

数日前、東京でもこの冬初めての雪が積もりました。


、、、日々、なるべく晴れやかな気持ちで過ごしたいと思っているのですが、ふと、得体の知れないカオス的な気分が、眼前の世界を侵蝕しつつあるのを感じてしまう時があります。


それは何気ない時に、透明な魂の静けさのなかにまで、ひたひたとその黒い触手を伸ばしてきます。


眼に見える外なる世界での戦いはもう終わっていて、いまや、不可視のカオス的な力が、身体の内にまで侵蝕し、人の魂の色をも鈍色に変色させつつあるかのようです。


だから、世界を動かしている力と対峙しようとしても、もう外界にその場所は見つからないのかもしれません。


私たちには、意識と生命が結びついている、内なる身体しか、すでに残されていないのではないでしょうか?


、、、オイリュトミーは、身体、自然、社会に対して、「言葉」と「音楽」が有する力を通して、それらに内側から働きかけます。


そして、星間分子の雲から生まれる星のように、あるいは、一粒の種から植物が成長し開花してゆくように、真に内的な力によって「変容」してゆくのです。


それは、あらゆる政治行為や、自爆テロを超えて、身体と、世界を、内側から「変容」させるための技法であると云えるでしょう。


皆さま、2016年第一回目の「ことほぎの木」、どうぞ奮ってご参加下さいませ。


(CORVUS 鯨井謙太郒)



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《2016年2月》



東京も、朝夕の冷気の合間に感じる陽射しに、春の気配が感じられるようになりました。でも、きっと仙台は、まだまだ寒いことでしょう。



厳しい冬の最中に、春への憧れを持つこと。この一見何でもない内側の行為を意識することが、23.4度の地軸の傾きによって奇跡的に四季を得た地球で、春夏秋冬の気分を持つことが出来る人間にとっての、ひとつの重大な意味を持ちます。



今、私たちの肉体が生きている大自然としての地球は、大きな変動の時を通過しています。気候、地質、海流など、いたるところで、それまで数千年間は途切れずに営まれてきたであろうリズムが崩れつつあります。しかし、この失われつつあるリズムが再び甦るとすれば、それは私たちの身体の「内側」において他にない、と言えるかもしれません。


私たちにとって「今」は、歴史的、文化的、そして宇宙的な意味での厳しい冬の時代です。この「冬」の次には、どんな「春」がやってくるのでしょうか。それは、全くもって私たち一人一人の内的な行為如何なのです。所与のものを意識の光に照らすこと、つまり、母なる自然から与えられたモノを、言葉の力で自らの内側から再創造し、新しい宇宙のタネをつくる行為です。



今月もまた、皆さまと一緒に内側のカラダで踊れることが楽しみです。閏の日の前日にお会いしましょう!


(CORVUS 定方まこと)



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《2016年3月》


いつ、なんどき、どこで、なにが起きるかわからない、という気配、、、


いまにも人生が、あるいは、この世が終わるかもしれない、という、痛切なリアリティ、、、


目の前の世界自体に、その可能性が内包されていて、この瞬間にも、それは現実となりかねないように思えてしまう。


事実、たった1人の人間の手によって、この世界が瓦解してしまう事態を想定することは容易いだろう。


これは単なる妄想ではなく、起こりうるひとつの可能性として。


そのことを、わたしはほとんど絶望的な切実さとともに思ってしまう。


一個人の、それは、主観的な感覚に過ぎないかもしれない。


けれど、1人の人間の生き死にを決める力が、その人の主観を超えているように、この世界の生き死にを決める、全存在の運命に関わる力も存在するだろう。


その力は、主観的な世界だけではなく、もっと個を超えた世界全体に働いている力だ。


そこに、ある客観的な意志が働いていることを、わたしは想像してしまう。


そして、1人の人間の主観的判断が、この世界を終わらせてしまえるような、破滅的可能性を孕んでいる現代とは、裏返せば、主観的な世界に、個を超えた創造的な力が流れ込みうる、かつてない時代なのではないかとも。


そこでは、個は全体よりも大きく、主観のうちには、客観的な意志が働きうるのではないだろうか。


だとすれば、人は、みずからのうちの利己的欲望と、創造的な無私的意志を見分けるために、主観と客観を意識化し、再び、みずからのうちに統合することを避けてはならないと思う。


たとえ、主客という二元的観点すら、すでに没してしまっている時代だとしても。


未来に対する、一つの認識の道として。




、、、ところで、 作家の辺見庸氏は「標なき終わりへの未来論」のなかでこう述べている。


「世界の未来は

①ありえないこと(the impossible)

②おこりうること(the probable)

③避けられないこと(the inevitable)

の三つに大別できた。

しかし、いま①は消えかかっている。もはやありえないことは、なにもありえないのだ。」


そうかもしれない。


これは世界に対する、人間の受動性と、能動性の観点から捉え直されることで、その意味を逆転しうる。


つまり、ここで人間が世界に対して、いかに向き合うかによって、この世界の未来図は、ポジにもネガにもなるという意味で。


思うに、途方もない古の時代から、脈々と続いてきたこの世界の生成過程が、いま、はじめて個の人間に委ねられ、もう世界の未来が、個の身体のうちからしか、新たに立ち現れることのない時代を迎えたのだ。


(CORVUS 鯨井謙太郒) 




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《2016年4月》


春四月。外側の自然界も、身体を取り巻く諸々の社会的環境も変化する時節。


まだ20代の頃。高橋巌先生の勉強会に参加していた時のこと。今でもとても印象深く想い起こされるのが、「身体」という言葉の成り立ちについてのお話です。


「身体」という言葉は「身」と「体」とに分けられ、「身」は不可視のカラダ、「体」は可視的なカラダを表している。例えば「身につく」という言葉の表す「身」は、肉体のみでなくその周囲にも拡がっている。仏教で、達磨上人において実現された言葉によって成り立つカラダのことを「法身(ほっしん)」という、等々。


自らに目を向けた時、私たちは「身体」をどのように感じているでしょうか。内側から感じていますか?それとも外側から捉えている?


「体」の可視的なカラダはもちろん、母胎を通して奇跡的にこの世に産まれてくるもので、それは外側から捉えることのできるものですが、「身」の不可視のカラダについて言えば、それは内的な感覚を通してしか感じることができないものです。その「身」は、内側から湧き起こる生長力、生命力と、外側から凝結し形づくる結晶力、形づくる力、この双方の働きを通して立ち現れているもの、と言うことができます。


それでは、「体」のカラダが一瞬で破壊されてしまう可能性を孕んだ時代に生きていることを考慮すれば、光と物質の間(あわい)に現れる色彩のように、かくも儚い私たちの「身体」を支えているものはいったい何でしょうか。


食事?環境?いいえ、それだけではありません。この世のありとあらゆる現象と、そこから産まれてくるありとあらゆる感覚的印象、ありとあらゆる肉体的・感覚的・感情的カオスの裡にあって、自らの「身体」に静かに向き合うことが出来たとき、唯ひとつそこに在るもの。あらゆる社会的束縛から自由で、産まれたばかりの純粋性を保ち、この現象世界よりも広く大きく在るもの。それは「私」です。その「私」が支えているのです。この「私」と、その「身体」の自由性を意識することこそ、私たちが今、西欧文明からやって来てかくも肥大化した物質主義全体社会の中でかろうじて生きていることの意味である、と言えるのかもしれません。


詩人であり、演出家、俳優でもあったアントナン・アルトーは、その当時ますます発達しつつあった西欧文明化社会を痛烈に批判し、人間の身体構造をつくり直し、人間に「器官なき身体」を与えなければならない、と述べました。ここで言う身体構造とはもちろん、単なる内臓や骨や筋肉のことではなくて、世界や歴史に対する「私」の「身」と「体」の根本的な在り方のことです。


今、私たちが昼間の日常を生きているこの現象世界に目を向けてみると、様々に溢れる情報から流れ来る感覚的・感情的、また肉体的なカオスが至るところで噴出しています。このカオスに目を瞑り、また排除するのではなく、「私」とその「身体」が静けさと共にそれらと対峙することが出来たとき初めて、アルトーの言う「器官なき身体」への扉が開かれるのでしょう。


私たち人間が、歴史や世界と自らの「身体」との本当の関係に目を向けなければいけない時節が来ていることを、ひしと感じています。


2016年4月


(CORVUS 定方 まこと)


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《2016年6月》


ことほぎの木の皆さまへ




唐突ですが、踊りは、どこに残るのでしょうか?


絵や彫刻や映像なら、その作品はモノとして残りますが、踊りは生もの、その一瞬にしか体験されないといえます。


そういう意味では、声や音楽は見えませんから、そもそもモノとしては形に残らないといえますが、踊りは、肉体という、眼に見えるモノとして存在する側面を持ちつつ、モノとしては残りません。


とはいえ、たとえその作品形態の存在時間が、10000年、あるいは、たった0,1秒だとしても、宇宙史的な時間軸から眺めてみれば、地球上のあらゆる出来事は、星の明滅の一瞬にも満たないでしょう。


今朝の食卓、新築のビル群、古代ギリシアの神殿、ポンペイの古代都市、ダヴィンチの絵画、恐竜の化石、、、私たちの肉体はもちろん、あらゆる物質的形態、人によって創られたモノとは、いずれはすべて消えて無くなります。


しかし、それらはどこへ行くのでしょうか?


さらに云えば、人の行為、あるいは、歴史上のあらゆる人間的営為は、最終的には跡形もなく消えてしまうのでしょうか?


それとも、どこかに残されるのでしょうか?





、、、人の動きに目を向けてみます。


人の動きを大別すると、無意識的な身体の動きと、意識的な身体の動きとがあります。けれど、意識的な動きとは何でしょう?やはりどこかに無意識の働きが入らざるをえません。


何気ない視線、声色、姿勢、さらには胃腸の消化活動、心臓の鼓動、細胞の呼吸、ホルモンの分泌から自律神経のバランスにいたるまで、、、あらゆる身体の無意識的な活動のなかには、私の意図とは関係なく、身体自身の意志とでもいえるような力が、一瞬も途切れることなく働いています。


想像も及ばないような話しですが、最近の学説によると、私たちの体内の細胞は、絶え間なく死滅と再生を繰り返していて、およそ7年の周期で、そのすべてが入れ替わってしまうそうです。


いったい、世界中の何十億という身体に、息をさせ、血液を巡らせ、細胞を分裂させ、食べたものを消化させ、歩かせ、眠らせ、考えさせ、はたまたその眼で世界を見、その耳で世界を聴いているのは、何者なのでしょう?この人体形式を創り、その身体活動を支えている力とは、どのような力なのでしょう、、、


身体に向き合えば向き合うほど、そのような無意識的な生命の意志が、みずからの身体の内に流れていると思えて仕方ありません。





、、、翻って、踊り手は、あるゆる身体の動きに意識を通そうとします。それは不可能なことかもしれませんが、踊りは、不可能に対する挑戦だともいえます。


無意識を意識化しようとする、私自身の意志なくして、自由な動きは想定できません。自由な動きがありえないとしたら、自由な創造ということもありえないでしょう。そして、もしも人間の創造行為に自由がないとすれば、私たちは、いつまでも無意識裡に動かされている、宇宙的な奴隷存在であり続ける、といっては大袈裟でしょうか?


はたして、無意識の動きとは何でしょう?





私たちの身体の内には、個人的、民族的、人類的、あるいは、宇宙的カルマとでも呼びたくなるような、途方もない力が流れています。


おそらく、このカルマとは、遥か遠い過去から流れてくる力です。モノとは、私たちが知覚した時点ですでに作られている、という点において、この過去からの流れに属するものでしょう。


反対に、未来とは、まだこの世に実現されていないがゆえに、無限の可能態であると考えます。もし、未来があらかじめ決められているとすれば、それは既定の未来、つまり、過去から流れてくる時間で未来を捉えているからです。


未来とは、現在の私たちを通して創られるべきもので、新たに生み出されるものだと思います。もし、私たちに自由な動きがあるとすれば、それは過去ではなく、無限の可能性として、未来に内包されているといえるでしょう。


現在という、私たちの意識の内とは、無意識から流れてくるこの二つの力、つまり、過去から流れてくる力と、未来から流れてくる力が混じり合っている地点といえるかもしれません。


だとすれば、私たちが無意識の領域に耳を澄ますことで、そこに未来の呼び声を聴き取ることもできるはずです。


底知れぬ無意識の領域に意識の光を流し、この肉体を生かし、動かしめている根源的な生命の力、その生命意図を理解すること。そして、私という個体のうちで、過去から流れてくるカルマを意識化すること。少なくとも、その努力なくして未来の自由は実現されえないでしょう。





肉体、生命、意識、そして、私。


まるで銀河系のような、その奇跡的な重なりの均衡のなかから、初めて私たちの前に内的な身体感覚が立ち現れてきます。


この世のあらゆるモノは、やがて消失してゆきますが、肉体、生命、意識が結びつき、人間の意志によって刻印された内的身体感覚は消えません。


なぜなら、その内的身体感覚のなかでは、過去から流れてくるあらゆるモノが、人間の意志の力によって、未来に変容しているからです。


あらゆる物質をその肉体とともに消し去りつつ、今、ここに、新しい見えない身体、未来を創り出すこと。


踊りは、人間身体の内で、過去も未来も現在化し、すべてのモノを消してしまうがゆえに、モノとして残らないといえるのかもしれません。




CORVUS

鯨井謙太郒


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《2016年7月》


仙台ことほぎの木の皆さまへ



夏。と言いましても、既に私たちの持つ季節感は失われつつあり、同時に現実の自然界のリズムも狂い始めているかように、東京は今、朝夕肌寒い日々です。


ところで、この夏という季節を考えてみた時に、何故こんなにも亡くなってしまった方たちとの関係が想い起こされるのか、と思うことがあります。個人的に7月は、親しい人(猫含め)を多く亡くした月でもありますが、お盆や、蝉や蛙の声、終戦の日、はたまた怪談など、夏にまつわる様々な要素が死者に対するある種の身体感覚を呼び起こしているからなのでしょうか。


学校や職場の夏休みや、海や山などの自然の中での、いわば情熱的な夏の解放感の背後で、夏至を折り返した太陽のベクトルが次第に、夜の長い時間軸に向かい始める時。かの清少納言も有名な枕草子のなかで、「春はあけぼの」に対して「夏は夜」と書きましたが、日の照りつける昼間のリアリズムと何かの存在に満ち満ちた夜、という二つの身体感覚的側面が夏にはあるのかもしれません。


私たちの生活に目を向けた時、人生における約3分の2は起きていて、昼の時間を過ごしていますが、残りの約3分の1は夜の時間を、睡眠として過ごしています。とすれば私たちは、起きている間は「昼の社会生活」を、寝ている間は「夜の社会生活」を営んでいる、と言うことが出来るかもしれません。


「夢枕」という言葉がありますが、私たちが睡眠中に営んでいるであろう「夜の社会生活」においては、これまでに亡くなっていった全ての人達や、これから生まれてくる全ての子供達と共に生きているのではないか、と考えることがあります。そう考えると、政治や法律や経済と結びついた社会生活、地域や家族と結びついた社会生活、ネット上のコミュニティの中での社会生活の背後には、今ここにはいない人達との社会生活がある、と考えてしまうのは私の妄想でしょうか。


私たちが頻繁に使う「社会」という言葉の背後に耳を澄ます、そんな気分を持ちながら、ひと夏を過ごそうと思っています。



2016年7月


CORVUS 定方まこと


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《2016年8月 》


以前、この「ことほぎ」クラスで、言葉のオイリュトミーのテキストとして取り組んだ詩人、パウル・ツェランの「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」で述べられている言葉は、私にとって、とても深く、大切な言葉として響いてきます。


両親を強制収容所で亡くし、自身も第二次世界大戦と、ナチスドイツによるユダヤ人迫害の時代を生きたツェランの、1958年のスピーチです。


少し長いですが、引用します。




《もろもろの喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。


それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。


しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、恐るべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起こったことに対しては一言も発することができませんでした。


しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けていったのです。抜けて行き、ふたたび明るい所に出ることができました。———


すべての出来事に「ゆたかにされて」。


それの歳月の間、そしてそれからあとも、私はこの言葉によって詩を書くことを試みました———


語るために、自分を方向づけるために、自分の居場所を知り、自分がどこへ向かうのかを知るために。自分に現実を設定するために。》


以上、「パウル・ツェラン詩集 飯吉光夫・訳 小沢書店」より




言葉には、コミュニケーションや、意味を伝えるという、記号的側面があるだけではなく、ツェランが語ったように、世界を認識し、人間を方向付ける力となっるのだということを、最近つとに、思い知らされています。


そして、誰もが、それぞれの断崖絶壁を歩かされているかのようなこの時代に、人間がどこから来て、どこへ向かうのかを、問い、あるいは、指し示し、現在を生きる者の魂を支える、命の源となるだろうと。


皆さま、クラスでお会いしましょう。


2016年8月  

CORVUS  鯨井謙太郒



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《2016年 9月》

ことほぎの木の皆さま



人間が言葉を持つようになる一番初めのときは、先ず、周囲の声を聴きとることから始まります。聴きとった声が喉の震えと結びついて発話が始まり、その響きがおぼろ気ながらに記憶や身体感覚と繋がってものの名が、場の空気や状態を感じることと繋がって形容が、その時々の状況や考えることと緩やかに結びつきながら文法があらわれてきます。その頃には、助詞や語尾のニュアンスのなかに、人間関係や社会構造までも含むようになります。


そのようにして獲得された生きた母国語が、成長に従って文字とその意味として刻まれ、概念、そして情報となっていく過程で、発話の初めのときにあらわれていたあの言葉の生命力は失われていきますが、そのかわりに今度は、思考の力、概念的な生命とでも言うべき身体で生きる契機を持つようになります。




近年に生まれた言葉で、人新世:[Antropocene](じんしんせい:アントロポセン)という言葉があります。ドイツ人で、ノーベル化学賞を受賞した、パウル・クルッツェン博士が提唱した時代区分で、自然と結びついて生きてきた人類が、科学技術の進歩や文明の在り方によって、地球の環境に具体的な影響を及ぼすようになった時代のことを指す言葉です。例えば、核兵器や遺伝子組み換え作物、気象改変技術などがそれに当たるのでしょう。


これは、内側から見れば、人類がその内的な営みを通して、地球や世界に影響を与える時代の鏡写しである、と考えることが出来るはずです。


また、個人の身体を、自然的な生命を生きる身体にとどまらず、意識を生きる身体へと 進めて行くこと、個の「裏返し」が世界全体であるところの身体が顔を覗かせることが、人類史的な必然を迎えていることのあらわれなのかもしれません。


今月も、よろしくお願いいたします。


2016年9月

CORVUS   定方まこと



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《2016年 10月》

秋風の心地よい季節、木々の枝から少しづつ葉が枯れ落ちていくと、日ごとに空が高く広がっていくのを感じます。


自然は冬支度を始め、どんどん透明さをましてゆくような気分になりますが、晩秋の訪れの前に、烈しく燃え上がるように色づく紅葉を見ていると、まるで世界の生命の最期の炎に触れるような、荘厳な感覚を覚えることがあります。



春は色とりどりの草花に鳥の声色

夏は鬱蒼とした緑と広がる空と海の青

秋には紅葉と枯れ木越しに見る空色

そして、冬は白と黒の無彩色



、、、最近、季節を色とともに感じてみるのもいいかもしれないと思っています。


いえ、季節といわず、1日の中でも色彩はつねに動いています。


明け方の空の光の変化、真昼の太陽に照らされている街並み、黄昏の黄色、オレンジ、赤、そして夜の帳と共に降りてくるインディゴ、、、


というように、私たちを取り囲んでいる世界は色に満ちていますし、また、その色はうつろう光と陰のなかで、一時としてとどまることはありません。


色は、つねに時とともに生き、流れ、変容し続けているのでしょう。


ところで、色には、ピグメントと呼ばれる目に見える絵の具や塗料のような物質的な色と、もう一つ、空の青や、海の紺碧、雨後の虹や、ガラスの断面にあらわれるエメラルド色のように、手にとって触れることのできない色があります。


これらは、手ですくい取ろうとしても、消えて透明になってしまいます。


この、物体の表面に付着していない、光と闇と、人間の目を通してのみ立ち現れて来る色彩を、ティンクトゥーラと呼びます。


この聴きなれない言葉の語源はラテン語ですが、もともとは錬金術の用語といわれています。


かつて、ストア哲学者のゼノンという人は、「色彩は物質の最初の現象形式なり」と述べました。


幼児は、壁の模様や滲みのなかに、様々な動物や草花や人間を見つけ出しますが、もしかすると本当にこの世界は色のなかから立ち現われてきたのかもしれません。


まだ硬い物質的な身体が生まれる以前の、そのティンクトゥーラ・ボディーを、言葉の響きと結びつけながら深めていきたいと思っています。


仙台の皆さま、どうぞ奮ってご参加下さい。


2016年10月


CORVUS   鯨井謙太郒


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《2016年 11月》

ことほぎの木の皆さま

秋から冬へと、駆け足で季節が過ぎてゆきます。そのような過ぎ行く時間の流れのなかで、「事物を内側からみる」ということについて、あらためて考えます。


例えば植物の成長。これを外側から見た時は、種があり、芽が出てきて、茎が伸び、葉が繁って‥という具合に、主として視覚を通してその時々の植物の状態を見る。これは言わば外からの関わりです。これが植物との内側からの関わり、ということになりますと事態は一変して、種から芽、茎、葉、花、実へと、次々とメタモルフォーゼしていく、力強い生命エネルギーの渦中に身を投じることになります。


では、この「物事を内側からみる」という視点を人の人との「縁」に向けてみた時には、いったい何が視えてくるのでしょうか。家族、恋人、古い友人、同僚など、今までに出会ってきた人達、またさらに、これから持つであろう未だ見ぬ出会いにも内側からの視線を向けてみた時。さまざまな感覚が生じてきますが、私にとってそこに立ち現れてくるものは、透明な糸が紡がれ染められ、経糸緯糸となって織られてゆく、ひとつの大きな織物のようなものとして感じられます。そしてまた、そこで糸と糸を出会わせている織り手は誰なのか、と夢想してみたり‥



気づけばもう、新しい年を迎えようとしています。今月も、どうぞよろしくお願いします。


2016年11月

CORVUS   定方まこと


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《2016年 12月》


ことほぎの木の皆さま


こないだ、ネットで「宿命」と検索してみると、「宿命」とは、生まれながらにして定められている、変えることのできない事実のことと書かれていました。


たとえば、人間として、肉体を持って生まれたとか、日本という国に生まれたとか、西暦何年生まれだとか、、、


それに対して「運命」とは、無限の可能性を秘めている不確定の未来をも指します。


たとえば、どんな職場を選ぶか、今日はどんな服を着るか、朝食に何を食べるか、明日誰々と何処何処に行くか、10年後の自分の姿とか、、、


以前、ブランキージェットシティーの浅井健一さんが、インタビューか何かで「気持ちを変えることは、運命を変える。」と言っていましたが、確かに「運命」というのは、一瞬一瞬変動している気象のように、自分の気持ちによって、将来どのようにも変わるものでしょう。


だから、こうも言えるかもしれません。「宿命」とは、過去からの力の流れによって決定されているものであり、「運命」とは、未来に無限の可能性としてあるものだと。


翻って、人間の「自由」とは、どこにあるのでしょうか?


結論から言うと、僕は、「自由」とは人間の「ソウゾウリョク」のなかにこそあるのでは、と考えます。


たとえ現実の自分が日本人であろうと、アフリカ人であろうと、ロシア人であろうと、あるいは、どんな社会的な状況に限定されていようと、「ソウゾウリョク」を通してならば、人はどんな存在にもなりうるし、何をすることも出来るからです。


けれど、「ソウゾウリョク」が自由な力であったとしても、そのことだけでは、世界に自由は実現されないでしょう。


、、、一人の芸術家を思い浮かべてみます。芸術家は、到底現実にはありえないようなファンタジーを、何らかの形で物質の次元に実現しようとします。


芸術は、ただ頭のなかで絵空事を妄想しているだけではなく、現実のなかに、行為として、あるいは、文字や、音や、絵や、建築や、なんらかの形として創造しなければ、作品として成立しません。 


だから芸術は、「ソウゾウリョク」という自由な力と、「物質」としての宿命を共に担っているといえます。


踊りであれば、「ソウゾウリョク」を通して、人間のファンタジーと身体が出会っている、と言えるかもしれません。


いったいそこでは、何が起きているのでしょうか?


僕は、もしも人間が、創造的な「ファンタジー」によって、物質を変容させつつ、現実をまるでイメージの素材のようにして創り変えることが出来るならば、それはまぎれもなく、世界に対する芸術行為だと思います。自由な「ソウゾウリョク」を通して、その時、世界は一変するでしょう。


この新しいファンタジーの世界に生きる、メタモルフォーゼした物質の身体にこそ、僕は、自由の未来を感じるのです。


、、、これは、もしかすると僕の「ファンタジー」に過ぎないかもしれません。けれど、それをこの世に実現しようとするならば、世界は変わらずにはいられないはずです。


2016年12月


CORVUS

鯨井 謙太郒